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能天気なB級に徹してくれればいいのに「ザ・コア」 [映画系]

ザ・コア

ザ・コア

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • 発売日: 2004/11/25
  • メディア: DVD
 
思えば、映画っつーものの面白さについて教えてくれたのはいつも「日曜洋画劇場」だった。トム・クルーズのキング・オブ・ハリウッドスマイル、マイケル・J・フォックスのとっちゃん坊やっぷりも、シュワルツェネッガーのみそっ歯仕様も。そして忘れててはならない淀川長治センセイは常にキープオンスマイルでどんなダメ映画も楽しそうに解説してくれていた。(わたくしごとで恐縮だが、一度淀長さんの解説付きのフェリーニ映画を見に行ったことがある。上映後、かなり小さい人が壇上にあがり、それが淀長さんだった。彼はテレビとはうってかわって、一言でフェリーニ映画を切り捨てていった。閑話休題)

そんなわけで25日、ぼんやりとまた日曜洋画劇場をつけてしまった。今回放映は「ザ・コア」。これ、有楽町マリオンの映画館で劇場予告編を見てああアレな映画だな…という印象が強く残っていたやつだったな、とすぐに気がつく。
お話としては、地磁気かなんかの乱れから異常気象や動物の異常行動死亡事故が頻発し、主人公である科学者が調べてみると地殻変動が原因であることが発覚。地球の命はあと3ヶ月!この事態を打開するためには、チームを組んで地球の核(つまりコアっすね)まで到達し、そこへ核弾頭を打ち込み、刺激し、再びコアを流動させなければならない。決死隊に選ばれた主人公たちは果たして地球の危機を救えるのか!?
まあ定石をはずさない物語展開っていうのは、飯の片手間で見る分には問題ないような按配。地球の危機が異常気象で人がズンドコと死なない限り判明しないっていうのもお約束だし、主人公がネクタイの締め方もしらないようなはみだし科学者っていうのも想定内。このプロジェクトチームとして選ばれるのが、黒人のおっさんと女性宇宙飛行士と手柄の横取りを企てる科学者、朴訥な武器操作役のジジイ、女性宇宙飛行士の上司である船長、コンピーターおたく、などこれまた定説でございます。注釈つかないのはみんな白人。いつも思うのは地球の危機の癖に、対処するのはアメリカ一国だけなんだな。世界の警察だしねえ、その気負いさ加減がいかにもアメリカンだよHAHAHAHAというノリで香ばしいですな。
で、このプロジェクトチームメンバーなんだけど、特に黒人のおっさんは都合よく、砂漠の片隅で「圧力をかければかけるほど強くなる」という即座に“どんなんだよ!”とツッコミが入りそうな金属を、砂漠の片隅でこつこつ人知れず研究しているわけですよ。つーかそんな世紀の大発明を一人で人知れず研究してるって…。金はどっから工面してんだろ。コンピューターおたくのやつはひょろっとしたチビでいかにもという感じ。まさに俺たちは特攻野郎テラチームという具合で、都合よく集められた都合よい人材が決死隊というわけなんですよ。
んでもってモスラみたいな形した掘削機兼爆撃機“バージル号”に乗って地球内部へ侵入する。途中地底生物とか地底人なんかがでてくるかとワクワクしながらお汁でテカっていたわけですが、そんなこともなく、非常に地味でチープなCGが続く。問題発生するごとに一人また一人と自己犠牲の名のもとにぼんぼんと野たれ死んでいくのですが、製作者の嫌がらせかその死にいく様子を断末魔の雄たけびなんかとともにじーっくりとこれでもかといわんばかりに舐めるが如く見せてくれる。このあたりでお茶の間にはかなりいやな空気が充満すること必須。一回だけならまだしも、半数以上がそうだと、ねえ。食傷を通り越して胃痛胸焼け胃のもたれ。こんなのを映画館で密閉空間と大画面の波動攻撃くらったらトラウマ必死。よい子は見ないでね☆

しかもねえ、結局この騒動がアメリカが起こして、てめえらで尻拭いという設定を知ったりするとよりイヤ~な感じが濃厚に。こういうB級科学考証一切無視のおバカちん映画なのに暗くて隠隠滅滅とした物語では気力が萎えまくり。もう少し明るくとお願いしたいところ。
まあそんなこんなで地上では一生懸命コンピュータおたくの少年が援護してくれたおかげで、無事コアを再起動、脱出、シャチが出迎えてくれたよキャッホーイとハッピーエンド。最後だけ能天気だったというオソロシイ結末でした。

しかし終わってしばらくして気づいたけど、出ていたんかヒラリー・スワンク(アカデミー2冠@オルタネィティヴ変体系)。キャットウーマンにでてアレな女優になっちゃうこともあるんだから、一応シゴト選ぼうぜなんて、てめえが選べないくせになんだよ!と逆ギレしてみてもなあ。とにかく見るものがないときや無意味に多幸感につつまれて、俺ってちょっとアレかな、というときにみるといいかもしれない。ダウナー養成映画でございます。

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「素晴らしき哉、人生!」メリークリスマスにはこの映画を [映画系]

素晴らしき哉、人生〈特別版〉

素晴らしき哉、人生〈特別版〉

  • 出版社/メーカー: ビデオメーカー
  • 発売日: 2001/12/21
  • メディア: DVD
メリークリスマス!
と陽気に声を上げられる人もそうでない人も、メリークリスマス!

私はうっかり24日夜に帝都新宿なぞを歩いてしまいましてえらく難渋しました。そらもおアンタ、これからやりまくり的な男女が群れをなして歩いているし、エスカレーターに乗れば、”かわす言葉もなく強く抱きあう恋”のまっただ中にいる方々が列をなしている、そんな状況です。嗚呼、神よなぜ私は一人なのか、とぐだぐだ言ってもしょうがない。なんか喰おうとしても、店の前には長蛇の列がとぐろをまいていたりするし。とりあえずそういう時は家の中でゆっくりとDVDでもみることにしていたほうが実に賢明。そんなわけで実行してみた。 クリスマスに見る映画といえばクリスマスキャロルとかが相場なんだろうけど、私がオススメしたいのはコチラ。「素晴らしき哉、人生」。素晴らしき、と、人生があわさって相乗効果を生んでいるような題名だけで敬遠したくもなるが、とくに私のようなゆがんで曲がって捻くりまくったような人間は、タイトルだけで「ケッ」という気にもなるってもんだ。しかも主演はミスターソフィスティケィティッドことジェームス・スチュアート!あまり期待しないで、まあ行事というか、冬至にカボチャ食べるぐらいのつもりで見てみたのだ、が。

そのお話はざっとこんな具合。

クリスマスの夜、ベッドフォードの街は、ある男への祈りで包まれていた。「神さま、ジョージ・ベイリーにお恵みを……」翼のない二級天使のクラレンスは神さまに呼び出される。「ジョージ・ベイリーはこんなに町の人に愛されている。彼を救わなければならない。お前がその使命を果たしたら、翼をやろう」「ジョージ・ベイリーってどんな人なんです?」クラレンスが尋ねると神さまは彼の一生を走馬燈のようにみせてくれた。

ジョージ(ジェームス・スチュアート)は小さい頃、雪遊びをしていた際、湖に落ちた弟を助けて耳が聞こえなくなってしまった。彼の家は住宅金融会社を経営していたが、街一番の実力者ポッター(ライオネル・バリモア)が経営する劣悪な住宅街の人々に低金利で住宅建設資金を貸し付けていたため、ポッターから睨まれて様々な嫌がらせをうけていた。生活は苦しい。彼は学費を稼ぐため幼い頃から薬屋でアルバイトをしていた。機転で、店主が劇薬を間違えて販売しかけたところをすくったこともあった。

ジョージには夢があった。この小さな街をでて、世界を冒険探検することを。大学を出た後、いよいよその夢のために出発しようとしたその日に、父が倒れ、やむなく彼は会社を継ぎ、弟が大学卒業して家業を継いでくれるまで待つことにした。だが、弟は、ジョージの会社を継げなくなってしまう。失意の彼を励ます幼なじみのメアリーと、ジョージは結婚するのだった。二人で新婚旅行に旅立つ日に、あの世界恐慌が起こり、ジョージの会社でも取り付け騒ぎが起きる。彼は、新婚旅行費用を全て吐き出し、その場をしのぐ。メアリーとジョージの友達は、幽霊屋敷と呼ばれるぼろやを綺麗に飾り付け、ジョージを出迎えるのであった。

やがて”ベイリーパーク”と名付けられた彼の会社の土地には、ポッターの店子が続々と引っ越してきていた。危機感を抱いたポッターは、ジョージを雇い入れようとするが、彼はきっぱりと断った。

4人の子供に恵まれたジョージは第二次世界大戦で障碍のため徴兵されることはなく、街のために尽力する。弟は戦功をあげ、故郷に錦を飾るべく帰郷するその日、12月24日、ジョージの会社で働く叔父は8000ドルという大金を紛失してしまう。会計監査員がジョージに迫る中、彼はその大金を工面できず、街の中をあてどなくさまよう。ついに川へ飛び込もうと決心するが、彼より一足先に飛び込んだ老人がいた。思わず助け出すと、その老人はクラレンスと名乗り二級天使だと自称する。頭のおかしい老人ではあるが、なぜか不意に8000ドルの件を指摘され、ふとジョージは「僕はいない方がいいんだ」と口走る。クラレンスはにっこりと笑うと「では君がいない世界を見せてあげよう」とジョージを誘う……

アメリカではクリスマスシーズンになるとテレビのゴールデンタイムで必ず放映されるそうだ。むべなるかな。ここにはアメリカが理想とするアメリカがある。真面目に生きていても、ポッターのような人間から攻撃されたりすることもある。だが最後には、その真面目に生きていたことの報いがある。 話しのテンポとしては、前半、ジョージの人生を丁寧に掬いとっているせいもあり、かなりモッタリとしている。話題の転換者たる天使クラレンスが登場するのは、後半も押し迫ってからだし。だが、この前半のいささか緩やかすぎる展開がないと、後半の劇的な展開へとつなげられないのは確かであり、緩慢さにだれてきたところで、ユーモラスなシーンが登場するので、退屈はしても徐々にひきこまれていくのがわかる。

ただ、天使が出てきたりして、そのあたりはキリスト教圏ではないとなかなかわかりにくいかもしれない。主人公の危機に神の救いというのはご都合主義という反撃もあるだろう。しかしこの物語は安直なお涙頂戴的寓話とはほど遠く、それはジョージという人が挫折の連続で現在まできている、というリアリティに裏打ちされており、そしてジョージという人物が決して聖人君主ではなく、喜怒哀楽の感情が表に出やすく、嫌なことがあれば車にあたったり、妻子に八つ当たりしたりするシーンで人間くささがあらわれることによって、実に身近な、つまり私やアナタである可能性が容易に高まるようになっている。自己主張の強いアメリカ人、という感じもしないでもないが、彼が去っていく知人に苦しい中から笑顔で餞別を渡したり、困っている人を助けたいという善意を抱いている人物であることも的確に描写されているので、さほど嫌な気はしない。忘れてはならないのは、彼はこれで一時的に危機を脱しただけで、実際にはまだまだポッターから攻撃や中傷誹謗をうけるだろう。妨害もあるだろう。でも彼はこの日、このクリスマスを経験したことによって、その苦難にも耐えていけるだろう。その明るさこそ、クリスマスに尤もふさわしいものだと、私は思う。

「凡庸という特殊な才能を有している希有な俳優」と評されたジェームス・スチュアートが多少無理がありつつも10代から40代へさしかかろうとしているアメリカン・メンをくっきりとした輪郭を持ちながら演じて抜群の存在感をだしている。クラレンス演じるヘンリー・トラバースも茶目っ気のある老人を好演し、こういう天使ならアリかも、というリアリティがありながらもファンタジーあふれる人物を上手に浮かび上がらせている。敵たるポッター役のライオネル・バリモア(ドリュー・バリモアの大叔父にあたる)もアクの強い、自分の分をわきまえた演技で対抗し、おのおのが自分にふさわしい演技を繰り広げる。そういう意味では映画らしい映画、といえる。


地獄への道は善意という礎石で敷き詰められている、といったのは誰だっただろうか。それは確かに事実だろう。だが、クリスマスの一夜、ありもしない物語に希望を見いだす、そんな「奇跡」があってもいいのではないだろうか。人生って素晴らしいと断言できない夜、自分とは不要な人間なんじゃないかとひとりごちたくなる夜、そして人生に希望を見いだしたいというような夜、この映画はそっと寄り添ってくれることだろう。メリークリスマス。あなたの人生に降る星が幾千と連なりますように。
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イージスにでてくる某国とはどこか。 [映画系]

※以下内容は軽いネタバレを含みます。ご注意を。

亡国のイージス

亡国のイージス

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • 発売日: 2005/12/22
  • メディア: DVD
 
自衛隊の方は大変だな、といつも思う。しょっちゅう国を憂えてなければ「ならない」ようであるし。クーデターとか起こしまくりだしな。マーダーライセンス牙なんて漫画読んでると、首相をF16戦闘機で襲うなんてシーンがぽこぽこでてきたりする上に、その他、ちょっと気を抜くとすぐ戦国時代へタイムスリップしたり、首都が雲に覆われた後始末をしなくちゃならないし、ニッポンコクにたいして異議申し立てはしなくちゃなんねーしで、もうおねえさん忙しくて相手している暇はないわよ!!!と逆ギレもしたくなるというもの。そんなわけで、無事逆ギレをはたした自衛隊上層部の人間が、某国の特殊工作員(かの国の現状を鑑み、クーデターを起こすために日本へ上陸…って意味不明だが設定がそうなんだから仕方ない)と手を組んでイージス艦を乗っ取り、毒ガス攻撃をちらつかせ、日本国へ、国家とは戦争とはニッポンジンとはなにか!?を小一時間問いつめるべく硬く屹立するわけですな。それを阻止せんとする、たたき上げの自衛官と密命を帯びた特殊工作員、そんな図式で物語が展開されていきます。
 
で、ですね。国を憂いた軍上層部の人間が、突然反旗を翻し、毒ガスを強奪し、それを武器に立てこもり、都市在住者を人質に国家を脅迫するっていうストーリー、どっかでみたことあるな、と思いきや。懐かしの「ザ・ロック」ではありませんか。例の刑務所からでてきたばっかりのジジイが現役の海兵隊員を殴り倒すっていうアレです。
 
ザ・ロック 特別版

ザ・ロック 特別版

  • 出版社/メーカー: ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
  • 発売日: 2006/01/25
  • メディア: DVD

国の作戦に従事したのはいいが、多数の死傷者がでた上、極秘任務だった為国家からは一切の賠償がでない。それを苦慮した海軍准将がたちあがり、開発中の毒ガスを強奪し、国家を脅迫するっていう話の展開がそっくりな上、最後、准将達が立てこもるアルカトラズごと爆破しようとする空軍戦闘機に対し、手旗で場内制圧を伝えるFBI捜査官っていうクライマックスまで……。少しは俺ジナルな咀嚼ぐらいしろってなもんです。それにしても「ザ・ロック」の反乱准将ハメルを演じたエド・ハリスの強固な意志が全面にでつつも、その裏にある知性を感じさせる顔(つまり厳然たる意志が知性を抑制しているような顔つき)に比べ、我らが寺尾聰のルビーの指輪然としたしょぼくれさ加減がどうにも。サニー千葉とかライダー藤岡弘なんかがまだ説得力のある顔をしている気がする。顔って大事だね。ちなみにハリウッドつながりでいえば、映画編集にトゥルーマンショーのスタッフが参加されているようですが、そのエキスはどのあたりに漂っているのか皆目見当がつきませんでした。ジム・キャリーが真実に気づいて逃げる、その実況中継を見てる観客がジムがんばれーと応援する姿と真田広之が必死に追っ手をかわすあたりにかすかに重なるかもしれない、もしくは防衛庁でモニターを注視している日本国首脳のお歴々の姿とか。あとはよくわからん登場人物がウントコショとでてきて謎の行動(突然行われる某国女性工作員と防衛庁直属の自衛官との水中接吻など)をするところとか。そんなエッセンスを探して楽しむのがこの映画の真の愛好という姿なのでしょうか。
 
そんなわけで物語自体の穴はいいますまい。だがどうにも致命的かつ我慢できない点は、前述したことの繰り返しとなるけれども、役者の顔にリアリティがない、ということ。とにかく中井貴一が某国工作員に全く見えないのはどうすればいいのだろうか。例えば日本人を表す記号として、眼鏡、出っ歯、カメラ、お辞儀、芸者なんてのがあるように、この際中井貴一も某国のなんていう公式サイトの説明でお茶を濁すなんてことはせずに、役者魂を炸裂させて、火病するとか特殊メイクでエラつけて「チョッパリよ、これが戦争ニダ」などというぐらいはするべきだったんじゃないでしょうか。おまけに、きいちの役名「溝口」が一瞬「水島」に聞こえたらアナタ、竪琴ひいてビルマにこもっていた人が平成の世、亡国を憂いて甦ってきたようでステキ。(それにしても、きいちはデビュー作“連合艦隊”の特攻死から幾星霜、どんどん死に方が悪くなっている気がする。今回はゾンビみたいになってるし)そもそも、クーデターの発端となる「防大生がHP(……)に載せた論文」っていうのも、「日本人は恥を失った」なんちゅうありがちで、ソースなしの断定が根拠なく続くというまさに「それなんてオモシロマンガ?」というシロモノ。反乱将校は火病でも発動しているのか、これを新聞掲載しろと内閣に要求するわけですが、こんなものが載った日にゃ、死人に鞭打つどころかさらし者にしているに等しいものです。親ばかっていうのは嫌だねえ。だいたいマヌケの連鎖は続くモノで、真田広之はクーデター失敗に終わった艦内にむけ「みっともなくてもいいから生き延びろ」みたいなことを言うのですが、いやあでもクーデターというか刑法第77条内乱罪適用されると、首謀者は死刑または無期禁固だからなあ……。この「亡国のイージス」の場合、これは関係ないからいっか。
 
そういや時代劇ドラマ「必殺必中仕事屋稼業」の中で、緒形拳が死に急ごうとする草笛光子に対して「無様に生き続けましょうや」と声をかけるシーンがあるのだが、まあそういうことで明日も生きて生きて生きまくれといいたいところだけれども、でも「GUSO」というこの映画のキーポイントとなる毒ガスは、琉球方言で言うと「あのよ」だしなあ、と深い余韻を残して、とにかく見るならまずは「ザ・ロック」をみてからにしてほしいと切にお願いして、では、また。
 
※この文章は実際の団体、人物、国家、民族、その他のいかなる問題とも全く無縁な場所で書いております。なんの意図もございませんのでご了承ください。
 

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ららら科學の子(失われた時間と不運にすごされた年月をおぎなう法) [読書系]

ららら科學の子

ららら科學の子

  • 作者: 矢作 俊彦
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/09/25
  • メディア: 単行本

矢作俊彦はなぜ現在こんなにまで不遇なのだろうか。
代表作といわれているものは手に入らないし、新刊が出ることも稀だ。
このあたりは小林信彦とよくにていて、文学というのがショセン、マニアが一方的に偏愛するものに過ぎないことがよくわかる。文学オタクなんて言葉も生まれるぐらいだし。すでに基礎教養ではないのだ。つい何十年か前まで、マルエン全集に触れたことがないなんて、ある程度以上の大学生にとって非常な恥であったのに。

「ららら科學の子」はあの懐かしき60年代学園紛争のさなか、警官殺人未遂を起こし指名手配された主人公が「軽い気持ちで」中国における文化大革命をこの目で見ようと手引きされ、密航したのはいいが、農村下放に巻き込まれ、以来電気もガスもない山奥の農村で30年にわたり生活するハメにあった後、21世紀初頭の現代日本に戻ってくる。そして自分の「失われた時を求めて」カルチャーショックなどという言葉では到底間に合わない文明の衝突を経験し続ける物語である。

この本を読んでいる間、カスパー・ハウザーが出現当時所持していたお守りのセリフ-失われた時間と不運にすごされた年月をおぎなう法-について考えていた。カスパーとこの物語の主人公は同じ意味を生きる。

よく編集された映画を見るように、現代と中国奥地での非文明的な生活、30年前の熱くあつい日々が見事にカットバックされている。それはあの「意識を流れ」を表現した「失われた時を求めて」「ダロウェイ夫人」と同じ薄皮を丁寧に貼り合わせた人間の記憶、薄皮をはぐとその下からあらわれる別な記憶、記憶と記憶と記憶の連続性のなさ、そこに通底する意識の流れ。過去へ行きつ戻りつしながら、彼は自身というモノを見る。
それは私の姿であり、人々の姿であり、日本という国の姿でもある。

前作「あ・じゃ・ぱん」(東西冷戦下において日本が東日本をソ連領、西日本をアメリカ領として統治されたという設定の偽日本史)と同様に、「30年前を生きる日本人が凍結されたマンモスさながらに突如現代日本に現れ、文明の衝突に体を揺さぶられ続けながらも自分自身とは何か、答えを見いだしていく」どうしてこういう設定を考えつき、なおかつSFにならないというアクロバティックな離れ業を成し遂げられるのか、と驚嘆せざるをえない。つくづく天才を思う。

岡崎京子を読んだときも思ったけれど、同時代に天才が生き、その人の書いた本をリアルで読める、それは何事にも代え難い歓びと興奮である。

矢作俊彦という一人の天才が、あまりにも評価されなさすぎている現状に怒りよりも呆れと冷笑をかんじる。


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「切ってはいけません」上と下、皮一枚の悩ましき関係 [読書系]

切ってはいけません! 日本人が知らない包茎の真実

切ってはいけません! 日本人が知らない包茎の真実

  • 作者: 石川 英二
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/09/21
  • メディア: 単行本
 
殿方というのは実に不可解なイキモノで御座いまして、皮一枚に対してなにやらアイデンティティをかけているムキも多いご様子。一皮むけているかいないか、これはどんな立場世代年齢職業の人間であれ、非常に気になるようですな。オトコたるモノ、ムけていなくては一人前といえないし、ムけきってしまえば赤玉が歳末大売り出しとなってしまうやもしれず、一長一短、どちらがいいとは言い難し。
 
昔から例のトックリセーターの襟で顔を半分覆い、こちらをチラっとみている例の美容形成外科の広告は、東西を問わずあまねく広く男性の間にて周知徹底されている模様。私は以前、セーターを脱ぎかけた男子二人が大爆笑していたのを目撃した経験があり、当時は純真な処女だったものでなんのことやらさっぱりだったのですが、今じゃ、坊やそんなこと気にせんでもええのですよ、と怪しげな方言で話しかけられるようにもなりました。大人ってステキ。閑話休題。

この本は、男子中学生が「手術したいのだけれども」と医者(=筆者)のところへ相談に来た、という体裁をとっている。そして(架空の)男子中学生との対話で進行していき、その会話を通して包茎とはなんなのか、医学的にどういう状態なのか、果たして日本人に包茎は多いのか否や、と硬くあくまで真面目に考察していく内容である。このテの質疑応答形式の本にありがちな、作者にとって答えやすい都合よい質問ばかりを縷々のべ、お手盛り感で腹いっぱいというような生ぬるい本と思ったら大間違い。男子中学生は包茎擁護・ナチュラルがいいんだ派の立場をとる医者に対し、徹底的に懐疑的な質問を繰り返していく。そのあたりにあざとさを感じないでもないが、ただやっぱり包茎イコール悪という価値観の中にいる思春期真っ盛りな年代を想定すれば、致し方ないのかもしれない。(そのあたりどなたか思い当たる方のご意見伺えれば幸い)おまけに巻末には包茎手術今昔といった趣のある、皮をべろんちょと切開していた昔と縦に切って横に縫うというなかなか想像しづらい現在主に行われている包皮を温存する手術の違いがわかりやすいように図解で記載されており、「ナチュラルなのがいいけど、どうしても手術する場合はこうなるよ」という懇切丁寧さ、そういう意味では悩める世代へ直球ダイレクトなつくりになっている。「ペニスと海綿体の構造」なんてまるっきり医学書。こういう真面目本によくある失笑も、作者のフランクさゆえにあまり感じない。しかしエノキダケみたいな図式にはさすがにちょっと。まあそういうわけである意味実用本。形式が形式だけに、読みやすく割りと早く読了してしまった。

しかしこの本、よくある「性について知りたいがちょっと恥ずかしいアナタに包茎のすべてを教えましょう」的な性教育本であるかというとそうではない。その包茎にまつわる雑学ネタのオンパレードには、皮についてはちょっとうるさい私のような人間でなくても、ほう、と唸らずにはいられないほど。皮があろうがなかろうが、それをじっくり考える機会にはもってこい。皮がある人もそうでない人もオススメ。(ただ難点がないわけでもなく、ユダヤ人の女性には子宮頸ガンが少ないそうだが、厳密な意味でユダヤ人という人種はいるのだろうか。私自身はユダヤ教を信じる人=ユダヤ人という認識だったので、このあたりは?と思った。イスラエル人と混同しているような気がする。私の認識が間違いならどなたかご指摘お願いします。)
個人的に本編を読んでなるほどと得心した記述を二三あげてみる。

一、医学的には仮性も真性もないそうだ。反転可能であれば包茎ではない、とみなされるという。

一、イスラム・キリスト教圏では割礼(生後間もない男の赤ちゃんに手術をほどこして皮を切除してしまうこと。アブラハムが皮を切って神への誓約としたことがその由来)が盛んだが、最近では失われた皮を取り戻す運動が繰り広げられているそう。ちなみに自身の創意工夫で皮を蘇らせたオーストラリアの男性がそのために費やした日数は30週とのこと。

一、ローマ時代に尊ばれたナニは小さくて包茎であることが条件だった。

一、古代のオリンピックが全裸で行われていたことはかなり有名だが、先っちょをだすのは非礼とされた。そのため割礼してボロッとでてしまう男性(または皮があまりない方)は皮を引っ張り紐でとめて露出しないようにした。これが長じて包茎へ戻す手術が考案されるようになった。

一、現在世界的な趨勢は「包皮維持」。中でもオーストラリアでは1950年代男性の約9割が幼児期に包皮切除手術を受けていたが、現在では1割強にまで落ちている。

一、平田篤胤は「外国人は包茎だ」と差別する和歌を残していた。

一、韓国の包茎手術率は若い世代で9割以上。中にはおじいさんが「息子に世話されるときに嫌がられてはいけない」と手術に踏み切る例も。

一、近年の研究で、皮の部分には重要な神経が存在することがわかった。先っちょが圧迫などの強い感触に反応するのなら、皮の部分はソフトタッチ、軽い感触に反応するようにできているらしい。
巻末には参考文献がいっぱい。検索方法も載っているので原典にあたりたい人には非常に親切。私は今まで皮マニア的観点から擁護をとってきたけど、嗚呼お母さん、それは間違いではなかったのね。とりあえず某形成外科の広告が気になる、あるいは皮一枚について考えてしまう方は必見。恥ずかしいなんてカマトトぶる方はamazonでどうぞ。

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【リメンバー・ミイ】ちあきなおみVIRTUAL CONCERT 2003 [音楽系]

ちあきなおみ VIRTUAL CONCERT 2003 朝日のあたる家

ちあきなおみ VIRTUAL CONCERT 2003 朝日のあたる家

  • アーティスト: ちあきなおみ, 水谷啓二, 倉田信雄, ちあき哲也, 小椋佳, 服部隆之, 飛鳥涼, 瀬尾一三, 友川かずき, スクランブル
  • 出版社/メーカー: テイチクエンタテインメント
  • 発売日: 2003/04/23
  • メディア: CD
久しぶりにテレビで動くあの人をみた。
 
凛としてしなやか。その歌声は地に足をどっかりとつけたかの如く磐石で、ゆるぎない。張りがある声が透明感を漂わせながら闇を貫く一筋の光のようにまっすぐこちらへ切り込んでくる。だが彼女の歌は私たちを包み、くるみこんでくるように暖かい。
 
放映された番組は、彼女のそれまでの出演場面から構成されていて、10代の妖艶で、しかも消えた時点の容姿とあまり変わらない姿に驚いたり、デビュー当時からあの歌唱力だったことに感嘆したり、彼女のインタビュー映像を見て、この人はかなり男っぽい性格なんだな、と実感したり。船村徹や梅沢富美男など、関係者からの談話もあるが長々やるわけでもなく、基本的には彼女の歌を流すことに終始しており、この番組を制作したスタッフも、彼女の歌を愛している様子が伺えてうれしかった。
 
彼女が歌わなくなってもう何年になるのだろうか。
 
これほど「もう一度」と本来的な意味で復活が切望されている歌手は彼女ぐらいだろう。たとえば山口百恵などは復活をラブコールされているが、どちらかというと大衆の視線はややもすれば彼女の歌をナツメロ視線、歌そのものよりも彼女の歴史を目の当たりにしたいというある種の低俗なものがたぶんに含まれているのは否めない。だが彼女の復活を切望している人たちはそうだろうか。彼女の歌わなかった歴史よりも、その年齢であの歌をどう歌うのか、その一点に興味があるのだろうし、本物の歌手が少なくなったと言われる今だからこそ演歌であってもジャズであってもブルーズであっても器用に歌いこなし、その情感を自分のものとしてアレンジして提供できるその応用力が必要とされるのではないだろうか。
 
その番組を見終わって、久しぶりに彼女のライブ盤を聞いた。番組の中で流れた「朝日のあたる家」をもう一度、どうしても聞きたくなったからだ。「朝日のあたる家」はこのVIRTUAL CONCERT2003にしか、収録されていない。
 
アニマルズでのエリック・バートンの絶唱を覚えている人も多いと思うこの曲はもともとアメリカ民謡らしい。ちあきファンの間では幻の絶唱と賞されているそうだ。彼女は原曲で歌ったわけではなく、ある歌手が訳詩したものをややドラマチックに詠唱した。なるほど。確かに『幻の』と冠つきになるのもうなづける。あの歌手の訳詩をここまで歌いこなせることに驚嘆した。そのある歌手とは、伝説のアングラブルーズ歌手の浅川マキである。
 
浅川マキは、寺山修二プロデュースでデビューして以来、ずっと自身の音にこだわり続け、メジャーとは軌を一にしない音楽活動を展開してきた。その浅川マキ+ちあきなおみという組み合わせはかなり異色で、たとえるならば福山雅治に山口富士夫が楽曲提供したようなものだろうか。かなり強引な例えであることは重々承知ではあるけれども、まあそれほど隔たりが感じられたわけです。しかしこの例え書いてみてこれ実現しそうだなとふと思ったり。現在はそういう意味で明確な仕切りというか垣根は存在せず、それを取っ払うこと自体が、アーティスト魂の発露という肯定的な捉え方をされているフシがある。だが翻って当時、もっとメジャーマイナーの区切りがはっきりしていた状況を考慮すれば、アングラと紅白常連歌手という“階級差”は厳然として屹立していたのではないだろうか。そういう中で毅然と好きな歌を歌うという姿勢を貫いている姿は実に清清しく、男らしいな、と震えてくる。
 
だがあの癖の強いマキ節をどう処理するのだろうか、と身構えて聞いている自分が馬鹿らしくなるほど彼女は飄々と歌う。平成も17年、そろそろ未成年から脱却しつつあるし、21世紀も5年過ぎたというこの日本において(歌った当時はいざ知らず)「女郎屋」という言葉にリアリティを持たせるのは非常に困難であるにも関わらず、平成18年になろうとするこの現在においても、言葉の一つ一つが強い説得力を保持し、その裏にあのマキの抱える『女』というものの“怨”を十分すぎるほど理解しながら、まただからといってそれを流用するのでもなく、あくまでも自分なりの表現方法で情念を塗りこめ封じ込めていく。女というものの不如意をぎりぎり下品に落ち込まずやさぐれもせず、ひとつのドラマとして的確に構築し、あくまでもエンターティメントとして提供できている曲は“彼女がうたうこの歌”以外に、私は知らない。
 
VIRTUAL CONCERT2003には、この曲のほか「喝采」「紅とんぼ」などの代表曲からシャンソンなど多岐にわたる。自己紹介に始まり、拍手で終わるこの流れは実際のライブ音源を集めたにしてはリアルすぎる。コンサート会場、壇上にいないその人を思い、それでもいつか帰ってきてくれるんじゃないかとどこかで期待しながら、私は今日もこのアルバムを聴く。
(文中で触れた彼女の歌番組、「ちあきなおみ歌伝説」は12/24NHKBSにて再放送します。見たい人は要チェック)

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男のハードボイルド講座【どらン猫小鉄】 [漫画系]

じゃりン子チエ (番外篇)

じゃりン子チエ (番外篇)

  • 作者: はるき 悦巳
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 1997/08
  • メディア: 文庫

知ってる方も知らない方も、皆様初めまして。

当ブログを運営します「る」と申します。本来別のHNでせこせことエロ駄文を記しておるのですが、今回、Direction編集部サマからこのような場をいただきまして、レビュー部分を独立させることとなりました。主にこのブログではサブカルチャーな本、漫画、映画などを中心としたレビューとなり、知らなくても損はしないが、知っていれば確実に『漢度』アップ、ウェイ・トゥ・ザ・イイ顔のオヤジへエニシング・マスト・ゴーオンな(テキトウ)ネタをさっくりオススメしていきたいと存じます。えげつない文章を読みたければコチラ。まったりと大人な雰囲気であれこれ勝手な感想を読みたければコチラ、と何卒よろしくお願い申し上げます。かしこ。

と終わるわけにはいかないので、来るべき第一回と致しまして「男のハードボイルド講座」と題して「どらン猫小鉄奮戦記」を取り上げる次第。まあハードボイルド講座なんて大上段から振りかぶったところで、大いに眠ったとか眠らないとか、サヨナラが永かったとか、あるいは童貞どもの拙い悩みに「ソープへ行け」と一喝される作家の本なんかは実は読んだことないのです。てへ。内藤陳センセイ的なニュアンス「ハードボイドドだど」ということでひとつ、どうも。

今回とりあげる「どらン猫小鉄奮戦記」はあの「じゃりン子チエ」の番外編をまとめたもの、スピンオフ作品である。「じゃりン子チエ」という漫画自体、既に古典の域に達している感があり、テツ、チエという名前をだした時点でアニメでの西川のりおと中山千夏のやりとりを即座に思い浮かべる方も多いのではないだろうか。本編については私などが取り上げる以前に既に研究会などもあるようだから、特にここでは触れない。(まあ知らないヒトの為に若干触れると、主人公チエは小学生でありながら、働かずにひがな博打の明け暮れとなっている父親“テツ”を尻目にホルモン屋を切り盛りしている『自称日本一忙しい少女』。チエとテツをめぐりナニワならではの厚い人情劇が繰り広げられる。関西人の常識?とも称される、その大阪濃度のきわめて高い内容とナニワ下町人情話で構成されている物語でつとに有名)今回は彼らではなく、脇で活躍する猫たちをメーンにした単行本をあえて取り上げたい。これは脇役が主人公となった番外編を集めただけの作品集と斬り捨ててしまうには、あまりにも惜しい秀作だから。

「じゃりン子チエ」の主人公であるチエちゃんが、ふとしたことから飼ったのが、この小鉄という猫。眉間にある三日月型の傷跡が、天下御免の向こう傷とばかりに、猫ではあるのだけれども、掃除もすれば金勘定もするスーパーキャットであったりする。首のマフラーがポイントのトラ猫ジュニアはその友達ではあるが、彼の父親であるアントニオ(アントニオの息子だからジュニアという安直な名前。そのあっさりさ加減に作者の思い入れの強さがよく表れている)は小鉄との決闘の際必殺技タマつぶし(おそらくご想像通りの技)を食らってしまい、それがきっかけに気が弱くなり死んでしまったという因縁を持つ。この番外編は基本的に上記二人?を中心にして展開されている。

もともとの「じゃりン子チエ」が連続ドラマでありつつも、基盤としては一話完結形式で、その作品世界へ入り込みやすいのと同様に、この「どらン猫小鉄」も、じゃりン子チエの世界観に触れたことのない初見の人でもすっと物語に溶け込めるようになっている。このあたりの柔軟性、間口の広さ、懐の大きさがはるき悦巳の真骨頂であるといえよう。

で、この「じゃりン子チエ」がナニワ人情喜劇に見せかけて「ハードボイドド」なニュアンス満載であることはいろんな人が指摘していると思うけれども、そのエキスというか汁というかそのあたりの「漢」を凝縮させたものが実はあの小鉄であると思うのは、私だけではあるまい。いみじくも劇中でジュニアの口を通して語られる、

「おまえはここにくるまで流れモンやったろ おまけに与太と関わりもって それに自分のことはあまり話したがらないのさ どこからともなく現れるような奴 どことなくヤクザっぽうてそれでどこか冷たそうで」(引用部分:第七話ジュニアの初恋後編)

という小鉄像なぞ、ハードボイルド主人公のある種のステロタイプとも言える。かっこいいなあ猫だけど。

だけれども。この猫である、ということが最大の武器であり免罪符でもあるのであって。もし生身の人間の話なら、この作者なら恥ずかしくて(そして読者するこちら側も)とても“やれた”もんではないだろう。ある評論家の言葉を借りれば「赤木圭一郎が墓場から甦って」きかねない。今更渡り鳥にギター持たせても、ねえ。

しかし猫に姿を借りたこの「ハードボイドド」な男たちの姿の潔さはなんだろう。オスたちは「男とは…」と語りあい、『男』を目指す。なぜならば彼らがオスだから。その問答無用さが潔さを呼ぶ。特に「第八話山の中のあいつ」は上質の掌編小説のようだ。男の中の男、石のこぶし、ファイティングマシーンと異名をとった小鉄とそれに憧れながらもどこか反発してしまうジュニアの織りなす日々は「お前ちょっと自分を見失のうとるんとちゃうか」「自分てなんや」(第二話スカーフの秘密)と、転びつ惑いつとまどいつつ、それでも明るい明日があるのだ。第七話ジュニアの初恋後編での〆台詞なんて、どんなイカした作家が堅ゆで卵作ったンかっていうぐらいカッコいい。

「ワシかてタンクローちゃんなんて呼ばれたことが… 好きな女(ヒト)からそお呼ばれる意味があとになって分かるものなのさ」

なんつーか、どこのフィリップ・マーロゥの台詞かと思うような(マーロゥは関西人だったということでタノム)、こんな名台詞の連続にどうかシビレて堪能してほしい。真っ正直に漢の文字を背中に背負うことの意味を身をもって体現している小鉄の古さがいまはとても懐かしく思える。こういう男ってたまんないよねえ。オスにしてもメスにしても。

今回の作品はかなり淡々とした日常エピソードを扱っているのだが、本来の小鉄ものはもっと殺伐と発狂している。それは「どらン猫小鉄」という単行本を読めば一目瞭然なのだが…残念、この小鉄シリーズの中での最高傑作である“なぜ小鉄は月輪の雷蔵と呼ばれ九州に銅像が建つハメになったか”のエピソードが展開されている単行本が現在絶賛絶版中となっている。復刊ドットコムで現在復刊に向けて投票を受け付けているので、この本を読み、さらに小鉄のハードボイドドワールドを堪能したくなったムキは是非投票して欲しい。私も投票しましたぜ、旦那。


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