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つまりジーン・ハックマンは漢。フレンチ・コネクション [映画系]

フレンチ・コネクション

フレンチ・コネクション

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2005/10/28
  • メディア: DVD


私事で激しく恐縮ですが。彼と喧嘩した。朝の5時から延々5時間ほど。

怒鳴り罵り、非をあげつらう。ヒトとヒトが支え合っているから『人』という字になるのだよ的な金八ヒューマニズムとは対極にある状況。やるかやられるか。殺伐とした空気の中いたたまれないからこそ怒鳴りあう。そんなこんなで気がついてみたら家を出ていた。しばらくお茶して家に戻り、そういうことで人は分かり合っていくのか、などと考えつつ茶の間でぼんやりしていると父親にシンミリ諭された。そうはいっても居直るのは最低だ、と斬り捨てると、そうはいってもよ、それが男ってもんだよ、と諦観の中で明るく断言された。そうか男か。 そんなまあショッパイ話で始まるのですが、その“男とはなにか”という命題を具現化したのがまさにこの、フレンチ・コネクションにおけるジーン・ハックマンの役回りだと思うのだ。そういうわけで、またまた真の漢、ジーン・ハックマンの登場です。またかよ、そんな声はイイ顔普及委員会においては却下されることと肝に銘じてほしい。今回は『狂犬』とあだ名されちゃうような鬼刑事を逝った目で演じております。漢。漢字の漢と書いて漢と読む。そんな小池一夫先生的なセンスがよく似合う。それがジミー・“ポパイ”・ドイル刑事。

あらすじ:ふとしたきっかけからフランス→アメリカのマフィア間で行われるヘロイン50㎏(時価3200万ドル当時麻薬取引の史上最高額だった)の密輸に気づいたN.Y市警麻薬課のジミー・ドイル刑事(ジーン・ハックマン)とバディ・ラソー刑事(サムシング・ワンダフルことロイ・シャイダー)。彼らはマフィアを一網打尽にすべく、N.Yマフィアを張り込み盗聴尾行などあらゆる捜査を行う。それはときとして違法すれすれだったり、暴力を伴うものだった。そんな相棒にあきれつつもラソーたちは犯人を追いつめていく。取引のためフランスから麻薬王(フェルナンド・レイ。本来は別人が起用されるはずだったが、天の恵みとはこのことをいうのだろう。これ以上ないくらいの適役)が訪米し、ドイル刑事は必死で尾行するがかわされ屈辱を味わう。そして麻薬王の右腕が邪魔なドイルを消そうと白昼狙撃する。辛くも被害を免れたドイルは、狙撃手を狂犬のように追いかける。狙撃手は地下鉄に逃げ、やがてジャックし、ノンストップの列車を高架下の道路を使って車でおいかけるドイル。(このシーンは変速カーチェイスとして非常に有名)列車はブレーキがきかず他列車に衝突。犯人がよろよろと降りてきたところを問答無用に射撃するドイル。やがて取引は佳境にはいる…。
(この先を知りたい方はこちらこちらでどうぞ。とくにこちらのサイトは私がこんなブログでぐだぐだいうのがまるっきり無駄なくらい的確に批評してます。登場人物とモデルとの比較もあり非常に親切。みてないやつはいますぐみれ!)

この映画を見ると、いかに最近の映画が説明過剰でご都合主義かがよくわかる。レビュー読んでいたら古い、ドラマ性がないなどと書いてあったけれど、そのドラマ性とやらは、絶対に死なないというのんきな安心感の中、筋肉と脳の比率が反比例しているような白人刑事(もしくはやたらスマートでひき絵がナイスな黒人)が景気よく銃をぶっ放しながら、犯人も情報も性欲処理係の乳のでかいおねえちゃんもなぜか都合よく口あけて待っている雛に餌をぶっこむ勢いで登場するとかそういうことなのではないだろうか。そういう意味合いでのドラマ性は確かに本作にはない。化学調味料を多量に含んだ食品を食べ続けると今度は、それがないと物足りなく感じるようなものである。

ここに描かれている犯人追跡は非常に地味だ。過剰な説明は省かれており、ひたすら厳寒のN.Y、その殺伐としたリアルさ、隣で人が殺されていてもスルーするような都会人気質と、犯罪やら危険やらが背中に張り付いている感じが画面全体の緊張感とも相成って混沌未分となっているところを、ひっかきまわして藻掻き喘ぐ既にして紙一重状態のドイル刑事=ジーン・ハックマン。やたら優雅な麻薬王の食事風景を見ながら――かたや一流ホテルの一流レストラン、あ、その鴨とね、エスカルゴをバターであえてね、それとグリーンソースをわすれないように、なんていいながら銀のフォークとナイフを分身のごとく操って食事しているところを凝視しながら、てめえは凍死もやむなしの寒空のもと、チーズが煉瓦状態になったピザと冷え切って泥水と化しているコーヒーをすするしかない。金持ち、アッパー階級への羨望と嫉妬、ブルーカラーの逆襲というようなスタンスで睨み付けているドイル刑事。自分がその負の感情で動いていることを熟知しながらも、それがなんで悪いと居直る。大物逮捕するためにはなにやったっていいだろと差別主義をむき出しにして平然と黒人をぶん殴る。こういった居直りさ加減が本作の白眉じゃないですかね。(この撮影がどういう状況下で行われたかはこちらのサイトでご確認ください)つまりこういう姿が、大事の前の小事という言葉でうまく言いくるめてしまえる、本質的にそれは全く正しいのだけれども、なんでもアリはどうよ?という指摘は腹に収めてほしい。ルサンチマンとリビドーと居直りで人は生きているのではないのかね。そうでないと生きていけねえんだよ!と少なくとも画面の向こうからドイル刑事は怒鳴り続けているのだな。

居直り。おめーらが綺麗なねーちゃんとオメコしてんのに、どうして俺はこんなところでぐだぐだとシケたツラのおっさん(ラソー刑事)みながら酒飲まなきゃいけねえんだ、とアイツがあんなに金があるのはおかしいと疑う導入部といい、肉体労働者階級のど根性(=居直り)が全編にわたってこれでもかこれでもかと叩きつけられる。最後ドイル刑事は行き着くところまで逝ってしまい、居直りどころか別な世界へと旅立たれてしまうのだが、それも含めて、本作はアリなのである。間違って役人を射殺してしまっても“俺はミジンコ殺してもしょーがねえんだよ!!!”とばかりに「あっちに行ったな」と放置して麻薬王を追いかけていく。あのシーンがあるからこそ、この作品はアカデミー賞へ到達できたといえる。最後の銃声は、続編を眼中に入れたことではない。善悪の彼岸を超えたドイル刑事への弔砲だったのではないだろうか。ああ父よ、あなたは正しかった。男の本質は居直りにある。それは時としてこれほど切実であるのだ。


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